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弟が死んだ話6

弟が楽しみにしていた家族そろっての会食は、隣の市にあるキッズルームつきの個室居酒屋で行われた。
車社会に育つ弟の娘たちは、駅から徒歩1分のところに住んでいるにもかかわらず、ほとんど電車に乗ったことがないといい、その日は大層はしゃいでいた。田舎の電車は1時間に1~2本しかないので、駅近に住んでいても滅多に乗らないのだ。私は無免許なので逆に電車しか足がなかったが。
弟の長男の端午の節句の祝いを兼ねてということだったのだけど、弟の真意はわからない。目標が欲しかったのかもしれないし、もしものときのために息子に何かを遺したかったのかもしれない。

私はカメラが趣味で、よく一眼レフを下げて子供たちや友人たちを撮影していた。だけれども、弟にレンズを向けるのは申し訳なくてできなかった。やせ細った姿を記録に残されるのは嫌だろうと思ったのだ。だから、そのときの写真に弟はほとんど写っていない。このときも、私は気を回しすぎたのかもしれない。私のカメラにもスマホにも、弟の写真は1枚もない。そもそも家で飲んでダラダラ喋るときになかなかカメラを向けようとは思わなくて、元気なときのものすら数枚あるだけだ。旅行に行って景色をいっぱい撮るけれど、結局自分や同行者の写真が1枚もないということに似ている。後から見たくなるのはそっちなのに。

皆が飲んでいる中で、弟は苦しそうにしながらもちびちびとウーロン茶に口をつけていた。料理にはほとんど手をつけていなかった。
唯一エビとチーズをワンタンで揚げたものを齧ろうとしたとき、母が「ダメよ」と制止して弟がすごい目で睨んだ。母いわく、血中のプラークを増やす食べ物(油類)は医者からダメだと言われているのだという。
それまでスイカしか喉を通らなかった人がやっと食べたいと思えるものができたのに、と悲しくなった。でも母は、節制して体にいいことを続けていれば、弟は治ると信じていたんだろう。というか、悪化することを恐れていたんだろう。だから、母のことは責められない。私だって息子が同じような状況だったら、間違いなく口出ししていただろう。

弟が病気になってから、いろんな本を読んだ。その中で、癌が寛解した事例を集めているこの本が一番希望をもらえた。

簡単に言ってしまえば、「どんな人でも確実に寛解する治療法はない。しかし、本人が能動的に選択し、本気で取り組んだ治療法のみ、癌を消す効果があった」という内容の本だ。

どんな治療法も、押し付けでは効果は生まれない。母の勧めた健康食品や食事制限も、もしかしたらそれで本当に効果があった人もいたのかもしれない。でも、弟は明らかに自分で選んではいなかった。だから、効果が出るわけもなかったのだ。

今年に入って、仕事でとあるカウンセラーさんに会ったとき、こんな話をされたことがある。
「私のところに、ガリガリにやせ細った人が相談に来たんです。検査をしても何の問題もないと言われたそうなんだけど、誰の目から見ても、栄養状態がきわめて悪いことは一目瞭然でした」
それで普段どんなものを食べているかを尋ねたところ、「有機農法で作った野菜を中心に、完璧に栄養を計算した料理を家族のために手作りしている」と、胸を張って言われたと。
「それだな、とピンときたのよ」とカウンセラーさんは言って、「本当に自分が食べたいと思ったものを最後に食べたのはいつ?」と尋ねてみたそうだ。
そうしたところ、「覚えていないくらい…昔です」と返ってきた。
その場で彼女が食べたいと思ったものを聞き出して食べさせてあげたところ(それは、どこにでもあるスイーツだった)、彼女はぽろぽろと泣いて、何かを悟った様子だったと。
それから、本当に食べたいものを作るようにした途端、栄養状態も良くなって1年後には劇的に元気になっていたそうで。

もしかしたら、「食べちゃいけないもの」を気にしすぎるあまり、弟の身体もこの女性のように栄養をスムーズに受け取れなくなったのかもしれない。心から「食べたい」と思うものを食べる生活を全否定され、「体にいい」といわれる好きでもないものを食べることを強制されていた。もちろん抗癌剤の影響が何よりも大きいのかもしれないけれど、メンタルの影響もきっとあっただろう。弟はずっと「自分が悪いけん」と、自分のことを責めていた。不摂生な食事が自分を病気にしたと思っていたからだ。


居酒屋でのささやかなパーティは子供たちのお陰でとても賑やかだった。弟も弱々しくだったけど笑ってくれていて、帰りに駅で別れるときに近所の美味しいラーメン屋の話や馬刺しの話をした。ちゃんと立って歩けていたし、元気だったんだ。あのときは。

弟が死んだ話5

このときから、弟とは頻繁にLINEでやりとりするようになった。
そしてすぐに飛行機のチケットを取り、実家に帰る手配をした。

病床の弟と初めて対面したのはそれからほどなくしてだった。弟は自宅で療養しているといい、実家から徒歩5分の距離にある弟の家へと向かった。
弟の家に着くと、奥さんが出迎えてくれた。弟は1階のベッドの上で寝ていた。
顔は土気色で、顔は頬がこけて目は落ちくぼんでいた。私が知っている弟とはまったく違う姿の弟が、そこにいた。
「久しぶり、来たよ」
動揺しているのを悟られないように笑顔のまま、「大変やったね、大丈夫ね?」と言って、彼のベッドのそばに座った。弟も嬉しそうに笑ってたけど、二人とも言葉が出てこなくて、しばらくふたりで涙を流しながら笑いあった。
弟の声は電話のときと同様、かすれていて今にも消え入りそうだった。

ちょうど薬の時間だったので、ベッドから介助してもらいながら身体を起こした。
弟の背中には床ずれができていて、湿布の張替えも一緒に行った。
背中を見せるときに恥ずかしそうに、「すっかり爺さんみたいな身体になったよ」と弟が言った。
たしかに、あの綺麗なシックスパックを見せてくれた頃とは別人のようだった。たくましかった腕は筋肉が削げ落ちて細くなり、お腹だけが平たくて太かった。『キン肉マン』に出てくるベンキマンのようなシルエットになっていた。
奥さんと母に介助してもらいながら湿布を張りかえ、薬とエビオス錠を飲み、汗をふいてふたたび横になった。たったそれだけの運動なのに、弟の額には汗が浮いて呼吸が乱れていた。
「ちょっと待ってね」と言って、呼吸を整えていた。

弟は最近Surface3を買ったのだと言って、ベッドの隣に置いてあったタブレットを見せてくれた。以前は放置気味だったfacebookのコメントも、最近マメにつけるようになったのは気がついていた。「ゲームはしてるの?」と聞いたら、「今はね、まったくできんね」と言っていた。見る、読む、くらいの単純なことしかできないようだった。長い文章もダメで、本も読めないのだという。

弟は、その翌日に予定していた家族での外食をとても楽しみにしていて、LINEで「何食べる?」としきりに聞いてきていた。
「食べられないものとかないの?」と聞いたが、「いや、大体なんでも食べられるよ」と返ってきた。食欲はあるんだ、とホッとしていた。
でも、それは嘘だった。ほとんど食べられるものがなく、唯一スイカだけが喉を通るのだという。スイカが食べられるとわかる前が一番ひどくて、なにも口にできない日々が続いていた。そのまま餓死するんじゃないかというくらいから持ち直したのは、スイカのお陰だったと母が言っていた。
1時間ほどだったか、ひとしきり話して、弟の部屋を後にした。
彼の現状を理解するには、十分すぎる時間だった。


あの頃、全員が弟のことを想い、心を痛めていた。
だから、それぞれがそれぞれに動きすぎた結果なんだろう。
母のところに、いろんな人から健康食品やら祈祷の話が舞い込んできた。
全部がインチキだとは思わないが、1瓶1万8000円もする水素の粒なんてものが癌を消すとは思えないし、サプリメントが癌の特効薬になるとはまったく思えない。化粧品会社が出している塗り薬が癌に効くなんて、普通の精神だったら信じないだろう。だけれども、藁にもすがる想いだった母は、全部ではないものの結構な種類の健康食品を買い込んでは、弟に飲ませていた。母は本気で、自分の力で弟を治すつもりだったのだ。

私たちが子供の頃に、父がとある宗教に入信した。あの某事件を起こした悪名高き宗教だ。私は面白がって理解を示していたが、冷静な弟は最初から懐疑的だった。そしてバカだった私は友達に宗教の名前を言い、「(弟)のねーちゃんは(某宗教)に出家する」という噂まで学校で流れていたらしく、弟は相当ストレスを感じていたらしい。ちなみに母も一切シャットアウトしていたので、父対母弟、私中立といった様相だった。

父は宗教のほかに、若い頃から東洋占術の気学を学んでいた。
気学というのは方位取りの占いで「こっちの方角は凶方位だから行ってはいけない」「こっちの方角が吉方だ」といったことを押し付ける。
どこかに行きたくても「方位が悪い」といって聞いてもらえないことは日常茶飯事だった。友達と遊びに行っても「〇〇の方角は方位が悪かった」などと後から言い出すから、とても気分が悪かった。
あるとき、弟が「サッカー留学をしたい」と言った。高校でサッカーに目覚めた弟は、サッカー部すらないところから一からチームを作り上げた。環境を整えることに手いっぱいで、選手として成長できる機会は高校では得られなかったから、留学でその機会を得たいと思っていたんだろう。そして父はその熱意を汲んで「いいだろう」と留学を許可した。
……んだけど、その約束はありえない理由で反故にされた。
「方位が悪い」だった。
あのときの弟の落胆ぶりはすごかった。そして、この件については死ぬまで父を許さなかった。
このことが弟の人生をどう変えたかはわからないけれど、あのとき精一杯プレイヤーとして熱意を昇華できていたなら、複数のクラブのコーチを掛け持ちして睡眠時間を削って身体に負担をかけることはなかったかもしれない。

そんなこんなで、弟の宗教やオカルトに対するアレルギーは人一倍だった。
だから、母が必死になって健康食品を勧めてくるのが、嫌で嫌で仕方なかったようだ。
私が「なにかできることはない?」と聞いたときに「いっぱいある」と答えたうちのひとつは、母の興味を逸らしてほしいという意図もあったのかもしれない。

弟が死んだ話4

家族の話

夫には空港からの移動中に弟が死んだことと喪服や着替えを持ってきてほしいと伝えていた。喪服は彼のお義父さんが6年前に亡くなったときに買ったコムサの黒の半袖ワンピースしかなかったので、今が夏でよかったとほっとした。4歳の息子は同居している義母に預けて、夫だけが来ることになった。
親戚や葬儀屋さんが帰って、家族だけになった。弟家族は実家から徒歩5分のところにある母が買った家に住んでいて、弟の奥さんはそこに帰った。子供たちは奥さんのお母さんが見てくれていた。
誰もいなくなってから、私は弟の枕元にビールを置いて、やっぱり泣いた。線香を絶やさないように父が弟のそばにいるといい、母と私は寝室に行った。

弟の闘病中、私は何度も実家に帰った。弟が死ぬなんて思ってなかったけれど、つらそうな家族の支えになりたかったからだ。全然なれなかったけれど、それでも弟は私がいるときだけは頑張って元気なふりをしてくれていた。あとから考えると、無理をさせてしまったかもしれない。でも、久しぶりに家族と話す時間がたくさん取れた。
あるとき、実家でひとりで寝ていたら真っ黒な大きな影が私の顔を覗き込んでいた。『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシのような感じだった。金縛りではなかったけれど、恐怖ですくんで動けなかった。やっとの思いでスマホの光をつけると、その気配がなくなった。それ以来、実家でひとりで寝るときは電気を点けたままでしか眠れない。実家をリフォームした今ですらそうだ。あれは死神だったんだろうか。

通夜は翌々日、告別式はその次の日になった。
夫は通夜の日に到着できるという。ただ、通夜の前日にもひっきりなしに来客があるようだった。適当な服がなかったので、母が車を出してお茶やお菓子などの買い出しついでに早朝から開いている激安衣料品店で上下黒の服を買いに行った。地方にはしまむらより安いスーパーのようなたたずまいの衣料品店が存在する。

たくさんの人が訪れた。親戚、友人、同僚。皆、早すぎる死にショックを受けていた。
弟の癌が判明したのが2015年の正月。新年の酒盛りが続いて、7日目に血を吐いて倒れ、病院に行った。すぐに手術をしたが転移していてどうにもできず、抗癌剤治療を続けて、亡くなったのは6月だった。
弟が担任しているクラスの卒業式には出たいと言っていたが、その頃には抗癌剤の影響で歩けるかどうかも怪しいくらいに弱っていた。それでも支えてもらいながら檀上に上がって、病人とは思えないほどの剽軽なスピーチをして、子供たちを笑わせたらしい。学校での弟は、とても明るくて剽軽で、怖い先生だったという。同僚の先生から語られるその姿は、私も親も知らない弟の一面だった。

私が弟の病気を知ったのは、2月頃だった。『キョウリュウジャーvsトッキュウジャー』の映画を息子と観て上機嫌のときに、母から電話が入って弟の状況を知った。でも、なかなか私からは連絡できなかった。野次馬のように弟にあれこれ連絡するのが、失礼なような気がしたのだ。弟はきっと治るとも思っていたから、つらいときに余計な連絡をして気持ちを逆撫でしたくなかった。つらいときは放っておいてほしいものだろうと、気を回しすぎた。
だから弟の手術のときも、私は普通に仕事をしていた。打ち合わせへ向かう道すがら、上司に「今、弟が癌の手術中で」と軽く話したら「こんなところにいていいんですか」と、びっくりされた。けれど、私がいたところでどうにもならないと思ったのだ。それに、どうせ治ると信じていたから。あのときは。

4月に入って、弟からLINEで通話が入った。
もしもし」という声が、私の知っている弟の声ではなかった。別人のようにしわがれて、弱々しくて、その声を聞いた瞬間に彼の置かれた状況を理解した。
「どうした? 大丈夫?」と言いながら、私はボロボロ涙を流していた。
電話の向こうでも、泣いているようだった。
「全然連絡できなくてごめん」「何か、わたしにできることない?」自分の嗚咽が聞こえないように、絞り出すように言った。
「……いっぱいある」弟が言った。
この言葉を、私は一生忘れないだろう。
具体的に何をしてくれとは言わなかった。でも、この時期に弟は自分の死を覚悟したんだと思う。だから私に、父と母と、奥さんと子供たちのことを託したんだ。
この日は、弟の長女の誕生日だった。

弟が死んだ話3

家族の話

泣きはらして今にも倒れそうな母が、出迎えるように、寄りかかるように私をハグした。母とこうやってハグしたのは、少なくとも大人になってから初めてだった。子供の頃すら記憶にない。
母と枕元へ行った。
まぎれもない、見慣れた弟の顔だった。
まるで生きているみたいに微笑んでいた。
母が、「あれ、笑っとる」「あんたが来たけん、笑っとるよ」と言ってまた泣いた。冷静に考えると死後硬直によるものだと思うけれど、きっとあれは弟が出迎えてくれたんだと信じている。

遺体を見て、やはり弟は死んだのだと理解した。実感はまだなかった。でも、悲しみは吹き出してきた。「あんたが50くらいになって、もう少し丸くなってきたころに一緒に酒を飲むのを楽しみにしとったとに」「どうして死んでしまったと?」言わなくてもいいことが、口から突いて出た。人目もはばからずに涙をボロボロ流した。酒が弟を殺したけれど、私と弟を繋いでいたのも酒だった。

ひとしきり泣いて顔を上げてから、父と母、弟の奥さんのほかに、近所に住む父の兄夫婦、隣の県に住む父の妹夫婦、隣の市に住む母の妹がいるのにやっと気がついた。葬儀屋と坊主は目に入ったのに、まったく気がつかなかった。父は無念そうにずっとうつむき、弟の奥さんは涙も流さずに魂の抜けたような表情で座っていた。弟の子供たちはもう寝ているという。時間は9時半を回っていた。

坊さんが、ちょうど自分の祖母もさっき亡くなったのだという話をしていた。そういえばこの坊主とは一度だけ会ったことがある。弟が亡くなるひと月前に、父の本家で法事があった。そのときにお経を上げていたのがこの坊さんだった。うちの実家が檀家になっている寺の住職だが、先代が亡くなってやってきた新参で、まだ40〜50代くらい。妙に自信満々だが、お経が「歌がうまいと思っている人のカラオケ」風で鼻についた。しかしうちの本家の叔母に言わせると「涙が出るほどうまい」そうで、いろんな人がいると思ったものだ。
その法事のときに、坊さんのお経を聞きながら、母がぽろぽろと涙をこぼしていた。「あー、母もこのナルシスティックなお経に、涙が出るほど感動しているのか」と呆れていたが、あとで聞いたら「(弟)になにかあったら、この人にお経を上げてもらうのかと思うと、くやしくてくやしくて…」と泣いていたそうだ。お、おう。

いかにも人の好さそうな葬儀屋さんが、やさしく今後の話を進めてくれる。強引でもなく、弱気でもない。本当にほどよい距離感で話をしてくれて、弱り切ったわたしたちにはとても心地よかった。こういうところにもちゃんとマニュアルがあるんだろうか。最初から最後まで、この葬儀屋さんにはいい印象しかない。


「葬儀のグレードはどうしますか」と聞かれて、母が「一番いいのでお願いします」と即答した。誰が来るかもわからなかったけれど、母はできるかぎり盛大に見送ってやりたかったんだろう。
香典返しから飾りから、あれこれと決めていく。きっとこうやって決断する瞬間を増やすことで、悲しみから目を逸らさせるんだろう。よくできている。

この日の夜のことはあまり覚えていない。というか、この夜から四十九日までの記憶がかなり曖昧だ。きっと脳がショックから守ってくれているんだろう。でも、弟の子供達にちゃんと伝えられるよう、覚えている限りのことをここに書き記しておく。

弟が死んだ話2

家族の話

空港から病院に直行するつもりだったが、弟の遺体はもう家に帰ってきたという。
空港から実家に帰るまでの電車の中で、涙が止まらなかった。真っ暗な窓の外を見ながら、子供の頃のことばかり思い出していた。

弟は3歳年下だ。要領の悪い長女の私とは対照的に、何もかもが問題のない子だった。親に怒られるのはいつも私で、母の膝に乗れるのは弟だった。常にガミガミと怒られる私を横目に、「なんでねーちゃんはいつも余計なことやるかな」という顔ですまして見ていた。
それを大人になった弟に言ったら、「親が大事にしてるのはねーちゃんて。俺、そがん怒ってもらっとらんもん」と言っていたので、子育てとは難しいもんだと思う。
私は怒られすぎて歪んだし、弟は怒られなさすぎたことが不満だったのだ。

これは蛇足だけど、私はミュージカルの『キャッツ』で歌われる『メモリーズ』を聴くと無条件で号泣する。年老いて誰からも相手にされなくなった元娼婦の老猫が、「誰か私を抱きしめて」と歌い上げる歌だ。
私はずっと誰かに抱きしめてほしかったけれど、母が膝に乗せて抱きしめる相手は弟だったから、ずっと隣で我慢していた。母はベタベタされるのが好きではなかったから、あまり触らせてもらえなかった。でも、布団に入るときに足を絡ませるのだけは嫌がらずにいてくれた。あれだけが、私が許された唯一の母とのスキンシップだった。
お互いに、お互いをうらやましいと思っていたのだ。これはもう弟には言えないけれど。

ここまで書くとどんなにひどい親かと思われるが、親は親なりに私たちをちゃんと愛してくれていたと思う。ただ、不器用だった。愛情表現が、我々姉弟が求めているものと親との間で絶望的にズレていたのだ。仕方ない。姉弟ですらまったく違うものを求めていたわけだし。私も親になったので実感しているが、どう頑張ったってそこは100%満足させることは不可能だ。私も私で、親に「抱きしめてほしい」なんてひとことも言わなかった。そんな願望があったことすら、気がついたのはさんざん男に失敗した後だった。
教師だった両親の愛情表現のひとつは、いろんな場所に旅行に連れて行ってくれることだった。でもそれは修学旅行のように詰め込んだスケジュールで、観光というよりは社会科見学といった趣だった。
あるとき弟が大きなボストンバッグを抱えているので「どうしてそんな大荷物を?」と思っていたら、生まれたときから使っているボロボロのタオルケットが詰め込まれていて、家族で大笑いした。それがないと旅先で眠れないと思ったんだろう。甘えん坊で、愛嬌があって、とてもかわいい弟だった。

思春期に入ると、弟はあまり家では話さなくなった。どこの家でも男児というのはそういうものらしい。私とふたりきりになると彼女の話などもしてくれていたけれど、親の前では徹底して弟は無口だった。
唯一、弟が饒舌になる瞬間が、酒を飲んだときだった。
私も弟も、酒が好きだ。あとゲームも好きだった。弟が女神転生シリーズを勧めてきて、『ペルソナ』や『ソウルハッカーズ』をプレイした。私が勧めたミステリーもよく読んでくれたけど、私が激推しした島田荘司の『占星術殺人事件』は「『金田一少年の事件簿』と同じじゃん」と言っていて軽く揉めた。あのトリック盗用は罪深いと思う。でも『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』はいたく気に入ったようだった。弟からは中村うさぎの『ゴクドーくん漫遊記』を勧められた。あれ以来、私は中村うさぎのエッセイが大好きだ。
そんなこんなで、酒を飲んでゲームや小説の話をするのが、姉弟の間での数少ないコミュニケーションになっていた。私が家を出て18年、帰省をするたびに弟と遅くまで酒を飲んでいた。

でもここ数年、私が帰省しても弟と会えることが少なくなった。
小学校の教師になった弟は、6年生の担任を連続で受け持ち、とにかく忙しそうだった。本業に加えて県内の複数のサッカーチームの立ち上げや指導なども行っていて、まともに寝る時間もなかったようだ。さらに家に帰れば生後間もない子供がいて、上の子供もまだ7歳と3歳。彼がゆっくり休める場所はどこにもなくて、たまに奥さんに内緒で実家に帰って寝ていたそうだ。なので病気になったときに弟が家族に最初に漏らしたのは、「こげんゆっくり休めたと、久しぶり」だった。
ただ、同僚の先生たちいわく、飲み会だけは付き合いが良かったという。たぶん貯まったストレスをそんな形でしか発散できなかったんだろう。家でも酒の量は多かったらしい。なので、病気になったときにしきりに「自分のせいやけん」と弟は言っていた。酒の量が尋常じゃないのは自覚していたんだと思う。でも、同じくらい飲む人はいくらでもいる。弟が病気になったのは、彼がそこまで休息を必要としていることに誰も気がついてあげられなかったせいだ。もちろん本人のせいでもあるし、周りのせいでもある。

彼の病気が発覚する半年前に、帰省した。このときが、彼と飲んだ最後の酒になった。
そのときも彼は「明日早いけん」とセーブしていたが、とても楽しい酒だった。母が「あんたがそげん酔っぱらったのを初めて見た」と言うくらいには私は上機嫌だったらしい。そのときに弟はちょっとした告白をするが、それは彼に悪いのでここには書かない。ただ、その話を聞いて「そんなこと言わずに頑張りなよ」と無責任なことを言っていた自分を殴りたい。弟は十分頑張っていたのに。逃げてよかったんだ。あのときが、私が唯一受信できた彼からのSOSだった。
あのとき弟はちょっと痩せていて、あとから聞いたら実は既に自覚症状があったのだという。でもそのときは「最近ダイエットしてるけん」といって割れた腹を見せてくれた。とてもきれいなシックスパックが見えた。


実家に着いた。
既に坊さんと葬儀屋さんが着いていた。

見慣れた風景の中に、見慣れない光景があった。
顔に白い布がかかった弟の遺体だった。

弟が死んだ話1

家族の話

ついに40歳になってしまった。四十路だ。初老だ。
こないだ亡くなった女性コラムニストさんが40になるというブログを書いていて、共感しかなかった。そして彼女は40になる前に亡くなってしまったのだ。なんとうらやましい。


2年前に、弟が死んだ。35歳だった。
3人の子供を残して。3人目の子供がまだ生後間もない頃に、大腸に癌がみつかった。肝臓に転移していて、ステージ4だった。すぐに手術をしたものの、細かく散らばった癌は取り切れなかったそうだ。結局、抗がん剤治療を行うことになった。

弟はスポーツマンで、背は高くないがとても精悍な体つきをしていた。抗がん剤にも病気にも負けないと思っていた。そんな彼だったけど、わずか数か月でまともに立てないほどガリガリにやせ細った。
その後の話は追い追い書こう。
端的に言うが、母が健康食品やらエセ祈祷師などの「人の不幸でお金を引っ張ろうとする輩」に付きまとわれ、弟を悩ませた。父は元から宗教にのめりこみやすい人だったが、お得意のオカルトは弟には何の効果もなかった。奥さんは生後間もない子供とまだまだ手がかかる上2人の世話に追われていて、弟をケアできる状況にはなかった。姉の私は飛行機の距離に住んでいるので、なにもできない役立たずだった。
弟の救世主には、誰もなれなかったのだ。


結局弟は、病気が発覚してから半年で亡くなった。
あの日。取り乱した母が泣きながら、「お医者さんが、もう明日までもたんかもしれんって…」と電話をかけてきた。弟は意識が混濁し、危篤状態にあった。
私はすぐに飛行機のチケットを取って、会社に事情を説明して早退し、1時間後には空港にいた。替えのコンタクトレンズはたまたま持っていたが、メガネがなかったので空港で買い、着替えも近くのユニクロで買った。今夜は病院泊になるかもしれないと思いながら飛行機に乗り込んだ。
弟が死ぬなんて、考えられなかった。きっと医者がヤブなんだ。
先週会ったときには少し元気になってきたと笑っていたじゃないか。

飛行機が着陸した。
真っ先に携帯の機内モードを解除すると、会社の経理の婆からおくやみメールが入っていた。イラッとした。まだ死んだわけじゃない。ただ、危篤なだけだ。
でも、その次の通知で力が抜けた。母からのLINEが入っていた。
1時間前に弟が死んだと書かれていた。

その場で叫び出したい気持ちに駆られた。
その場にいる全員に、弟が死んだことを知ってほしかった。