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弟が死んだ話4

夫には空港からの移動中に弟が死んだことと喪服や着替えを持ってきてほしいと伝えていた。喪服は彼のお義父さんが6年前に亡くなったときに買ったコムサの黒の半袖ワンピースしかなかったので、今が夏でよかったとほっとした。4歳の息子は同居している義母に預けて、夫だけが来ることになった。
親戚や葬儀屋さんが帰って、家族だけになった。弟家族は実家から徒歩5分のところにある母が買った家に住んでいて、弟の奥さんはそこに帰った。子供たちは奥さんのお母さんが見てくれていた。
誰もいなくなってから、私は弟の枕元にビールを置いて、やっぱり泣いた。線香を絶やさないように父が弟のそばにいるといい、母と私は寝室に行った。

弟の闘病中、私は何度も実家に帰った。弟が死ぬなんて思ってなかったけれど、つらそうな家族の支えになりたかったからだ。全然なれなかったけれど、それでも弟は私がいるときだけは頑張って元気なふりをしてくれていた。あとから考えると、無理をさせてしまったかもしれない。でも、久しぶりに家族と話す時間がたくさん取れた。
あるとき、実家でひとりで寝ていたら真っ黒な大きな影が私の顔を覗き込んでいた。『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシのような感じだった。金縛りではなかったけれど、恐怖ですくんで動けなかった。やっとの思いでスマホの光をつけると、その気配がなくなった。それ以来、実家でひとりで寝るときは電気を点けたままでしか眠れない。実家をリフォームした今ですらそうだ。あれは死神だったんだろうか。

通夜は翌々日、告別式はその次の日になった。
夫は通夜の日に到着できるという。ただ、通夜の前日にもひっきりなしに来客があるようだった。適当な服がなかったので、母が車を出してお茶やお菓子などの買い出しついでに早朝から開いている激安衣料品店で上下黒の服を買いに行った。地方にはしまむらより安いスーパーのようなたたずまいの衣料品店が存在する。

たくさんの人が訪れた。親戚、友人、同僚。皆、早すぎる死にショックを受けていた。
弟の癌が判明したのが2015年の正月。新年の酒盛りが続いて、7日目に血を吐いて倒れ、病院に行った。すぐに手術をしたが転移していてどうにもできず、抗癌剤治療を続けて、亡くなったのは6月だった。
弟が担任しているクラスの卒業式には出たいと言っていたが、その頃には抗癌剤の影響で歩けるかどうかも怪しいくらいに弱っていた。それでも支えてもらいながら檀上に上がって、病人とは思えないほどの剽軽なスピーチをして、子供たちを笑わせたらしい。学校での弟は、とても明るくて剽軽で、怖い先生だったという。同僚の先生から語られるその姿は、私も親も知らない弟の一面だった。

私が弟の病気を知ったのは、2月頃だった。『キョウリュウジャーvsトッキュウジャー』の映画を息子と観て上機嫌のときに、母から電話が入って弟の状況を知った。でも、なかなか私からは連絡できなかった。野次馬のように弟にあれこれ連絡するのが、失礼なような気がしたのだ。弟はきっと治るとも思っていたから、つらいときに余計な連絡をして気持ちを逆撫でしたくなかった。つらいときは放っておいてほしいものだろうと、気を回しすぎた。
だから弟の手術のときも、私は普通に仕事をしていた。打ち合わせへ向かう道すがら、上司に「今、弟が癌の手術中で」と軽く話したら「こんなところにいていいんですか」と、びっくりされた。けれど、私がいたところでどうにもならないと思ったのだ。それに、どうせ治ると信じていたから。あのときは。

4月に入って、弟からLINEで通話が入った。
もしもし」という声が、私の知っている弟の声ではなかった。別人のようにしわがれて、弱々しくて、その声を聞いた瞬間に彼の置かれた状況を理解した。
「どうした? 大丈夫?」と言いながら、私はボロボロ涙を流していた。
電話の向こうでも、泣いているようだった。
「全然連絡できなくてごめん」「何か、わたしにできることない?」自分の嗚咽が聞こえないように、絞り出すように言った。
「……いっぱいある」弟が言った。
この言葉を、私は一生忘れないだろう。
具体的に何をしてくれとは言わなかった。でも、この時期に弟は自分の死を覚悟したんだと思う。だから私に、父と母と、奥さんと子供たちのことを託したんだ。
この日は、弟の長女の誕生日だった。