弟が死んだ話6

弟が楽しみにしていた家族そろっての会食は、隣の市にあるキッズルームつきの個室居酒屋で行われた。
車社会に育つ弟の娘たちは、駅から徒歩1分のところに住んでいるにもかかわらず、ほとんど電車に乗ったことがないといい、その日は大層はしゃいでいた。田舎の電車は1時間に1~2本しかないので、駅近に住んでいても滅多に乗らないのだ。私は無免許なので逆に電車しか足がなかったが。
弟の長男の端午の節句の祝いを兼ねてということだったのだけど、弟の真意はわからない。目標が欲しかったのかもしれないし、もしものときのために息子に何かを遺したかったのかもしれない。

私はカメラが趣味で、よく一眼レフを下げて子供たちや友人たちを撮影していた。だけれども、弟にレンズを向けるのは申し訳なくてできなかった。やせ細った姿を記録に残されるのは嫌だろうと思ったのだ。だから、そのときの写真に弟はほとんど写っていない。このときも、私は気を回しすぎたのかもしれない。私のカメラにもスマホにも、弟の写真は1枚もない。そもそも家で飲んでダラダラ喋るときになかなかカメラを向けようとは思わなくて、元気なときのものすら数枚あるだけだ。旅行に行って景色をいっぱい撮るけれど、結局自分や同行者の写真が1枚もないということに似ている。後から見たくなるのはそっちなのに。

皆が飲んでいる中で、弟は苦しそうにしながらもちびちびとウーロン茶に口をつけていた。料理にはほとんど手をつけていなかった。
唯一エビとチーズをワンタンで揚げたものを齧ろうとしたとき、母が「ダメよ」と制止して弟がすごい目で睨んだ。母いわく、血中のプラークを増やす食べ物(油類)は医者からダメだと言われているのだという。
それまでスイカしか喉を通らなかった人がやっと食べたいと思えるものができたのに、と悲しくなった。でも母は、節制して体にいいことを続けていれば、弟は治ると信じていたんだろう。というか、悪化することを恐れていたんだろう。だから、母のことは責められない。私だって息子が同じような状況だったら、間違いなく口出ししていただろう。

弟が病気になってから、いろんな本を読んだ。その中で、癌が寛解した事例を集めているこの本が一番希望をもらえた。

簡単に言ってしまえば、「どんな人でも確実に寛解する治療法はない。しかし、本人が能動的に選択し、本気で取り組んだ治療法のみ、癌を消す効果があった」という内容の本だ。

どんな治療法も、押し付けでは効果は生まれない。母の勧めた健康食品や食事制限も、もしかしたらそれで本当に効果があった人もいたのかもしれない。でも、弟は明らかに自分で選んではいなかった。だから、効果が出るわけもなかったのだ。

今年に入って、仕事でとあるカウンセラーさんに会ったとき、こんな話をされたことがある。
「私のところに、ガリガリにやせ細った人が相談に来たんです。検査をしても何の問題もないと言われたそうなんだけど、誰の目から見ても、栄養状態がきわめて悪いことは一目瞭然でした」
それで普段どんなものを食べているかを尋ねたところ、「有機農法で作った野菜を中心に、完璧に栄養を計算した料理を家族のために手作りしている」と、胸を張って言われたと。
「それだな、とピンときたのよ」とカウンセラーさんは言って、「本当に自分が食べたいと思ったものを最後に食べたのはいつ?」と尋ねてみたそうだ。
そうしたところ、「覚えていないくらい…昔です」と返ってきた。
その場で彼女が食べたいと思ったものを聞き出して食べさせてあげたところ(それは、どこにでもあるスイーツだった)、彼女はぽろぽろと泣いて、何かを悟った様子だったと。
それから、本当に食べたいものを作るようにした途端、栄養状態も良くなって1年後には劇的に元気になっていたそうで。

もしかしたら、「食べちゃいけないもの」を気にしすぎるあまり、弟の身体もこの女性のように栄養をスムーズに受け取れなくなったのかもしれない。心から「食べたい」と思うものを食べる生活を全否定され、「体にいい」といわれる好きでもないものを食べることを強制されていた。もちろん抗癌剤の影響が何よりも大きいのかもしれないけれど、メンタルの影響もきっとあっただろう。弟はずっと「自分が悪いけん」と、自分のことを責めていた。不摂生な食事が自分を病気にしたと思っていたからだ。


居酒屋でのささやかなパーティは子供たちのお陰でとても賑やかだった。弟も弱々しくだったけど笑ってくれていて、帰りに駅で別れるときに近所の美味しいラーメン屋の話や馬刺しの話をした。ちゃんと立って歩けていたし、元気だったんだ。あのときは。